自己肯定感が低い?低いって何が基準?見方を変えたら肯定できてきた

教育について
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自己肯定感が低いと感じている方は、多いと思います。

自分の性格や考え方を直したい、変えたいと思っても、何をどうしたらいいのか分からないですよね。他人の性格はそもそも変えようがないと思いますが、自分の事も、実はよくわからないものだと思います。

この記事では、自己肯定感とはそもそも何?のお話も交えて「自己肯定感が低い」と悩んでいる方のお役に立てるよう、教育に携わってきた端くれ者がまとめていきます。

※当サイト「ゆきのこ広場」では私自身の体験や調べたことをもとに記事を執筆していますが、一部リンクにはアフィリエイト広告が含まれています。詳細事項はプライバシーポリシーと免責事項をご覧ください。

自己肯定感が低い?原因や直し方とは

自己肯定感が低いという言葉はよく耳にしますが、「低い」と感じてしまう原因は何なのでしょうか。見方を変える

自己肯定感が低いと感じてしまう原因(個人的見解)

自己肯定感が低い原因は様々あると思いますが、主に以下の要因が考えられるのではないか、と私は思います。

・情報の多さ&情報の取り扱いに関する教育の乏しさ

・義務教育の評価システム

・育ってきた家庭環境

情報の多さ&情報の取り扱いに関する教育の乏しさ

情報の多さ…脳が疲れきっている?!
スマートフォンを持ちながら歩いている女性

「情報の多さ&情報の取り扱いに関する教育の乏しさ」についてですが、近年、急速に情報化社会が進んでいますよね。

ある情報を集めるために必要な時間について「江戸時代には10年位、今では1日、数時間で情報が集まってしまうらしい」と、本が好きな友人から聞いたことがあります

社会はどんどん変化していき、情報も新しいシステムも増えるばかりで、私たちの身の回りは日々新しくなる情報であふれかえっています。

しかし人間の体の仕組みはどうでしょうか。たった数百年で、脳の構造が著しく変化するなんて、到底無理な話です。

何か目的があって情報を集めたり広めたりするには恵まれた世の中ですが、あふれかえる情報に片っ端から触れたり、やみくもに情報を取り入れ続けたりするのは、脳が疲れ切ってしまいます。

多くの方は、毎日気が付かないうちに、脳が疲れ切っているのではなでしょうか。

脳が疲れ切っていると、自然とマイナス思考になっていくのではないでしょうか。

マイナス思考になっているタイミングで有益な情報に触れたとしても「自分には到底できない」と考えてしまったり、情報で出てきた人物と自分を比較して考え落ち込んでしまったりすることも、あるのではないでしょうか。

大切な「自分」の考え方や感じ方、好きな事、得意なことに思いめぐらす時間やタイミングを逃してしまう、大きな原因になっているように私は考えてしまいます。

情報の取り扱いに関する教育の乏しさ…情報源や情報の比較、自分の意見、考えますか?

自分の考えで情報の取捨選択ができるようになる力を育むことは、自己肯定感を育む上でも重要だと考えます。

溢れる情報で、不要な場面で傷ついたり、自分と他者を比較して落ち込んだり、する必要がない場面で無意味に自己肯定感が無くなってしまうことを防ぐことができると思います。

情報の取捨選択について考えたり、情報リテラシーについて学んだり、大切な事だと思いますが、情報リテラシー」を聞いたことがある方は少ないかもしれません。以下にウィキペディアから説明を引用します。

情報リテラシー(じょうほうリテラシー、: information literacy)とは、情報と識字(リテラシー)を合わせた言葉で、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことである。「情報活用能力」や「情報活用力」とも表現するが、文部科学省が定義する「情報活用能力」とは意味合いが異なる。

(中略)現在の情報化社会において、コンピューターをただ使用するだけではなく、情報にアクセス、精査し、社会的、文化的、そして哲学的な状況・影響を知ることができる能力としている。

ウィキペディア「情報リテラシー」

主に図書館で広まっている運動のようですが、近年では情報化社会の流れを汲んでいるようですね。

一方、日本の情報リテラシーに対する認識は、国際的な認識と違っているようです。

日本では情報リテラシー理解は特有のものであり、国際的な理解とは異なる点がある[5]

日本では、情報機器を活用して情報社会を生きていく能力といったニュアンスで使われているようである。

ウィキペディア「情報リテラシー」

国際的な理解と日本の理解の違いが、教育内容の違いにも表れているようです。日本とアメリカの例が、ウィキペディアに書いてありました。以下に引用します。

また、インターネット利用について、日本とアメリカの情報リテラシー教育の違いがどのように現れているかにも違いがある[8]。日本では、インターネットの技術的な部分やサービスの仕組みとそれを使用する方法に加え、セキュリティの問題、倫理的な問題、個人情報、著作権の保護についての一般的な注意を行う[7]。対して、アメリカでは、技術的な部分は軽く済ませて、個々のサービスが何を提供するか、利用するためにはどのような方法があるのか、どのような情報が引き出せるのか、さらに情報の特性や利用方法の検討、内容のあり方、利用の仕方、内容の評価にまで踏み込む[9]

ウィキペディア「情報リテラシー」

日本で行われている教育内容の「セキュリティの問題、倫理的な問題、個人情報、著作権の保護」はどれも大切な内容だと感じます。

もう一歩踏み込んで「情報の取り扱い方法、情報に対する取捨選択の仕方」を考える機会をぜひ設けてほしいところですね!

アメリカでの情報リテラシー教育例のように「情報の特性や利用方法の検討、内容の在り方、利用の仕方、内容の評価」まで行うことができれば、情報に踊らされることなく、自分の考えで多くの情報の中から取捨選択していく力を育んでいけるのではないでしょうか。

現代社会を生きる上で、とても重要な力ではないでしょうか。日本での情報リテラシーに対する認識を国際的なものに合わせ、教育内容も検討し変化していくべきだと思います。

といっても、教育内容が実社会に合わせて迅速に変化していくことはあまり期待できないと思ってしまいます。どうしたら変わっていくのでしょう…。微力ながら、発信していくほか無いのかなと今は考えています。

義務教育の評価システム

義務教育の評価システムについての筆者の考えは、こちらの記事でも述べています。

私の考えは簡単に述べますと、現行の公立小学校・中学校の評価方法が「暗記した内容で競うテストメイン&テスト点数結果メインで成績を付ける」ことなのはもう今の時代に合っていないから「正解・不正解を超え自分の考えを深める機会を大幅に作り出す」ためのテストや教育内容に変えていくべき、と考えています。

現在の評価方法で行うテストは「1つの正解が存在する」ものが多いので、「間違いはダメ」という感覚を植えつけ、自己肯定感を得ることが難しい仕組みになりがちだと私は思います。

本来、間違いや失敗は歓迎するべきものだと思うのです。「間違い・失敗」は経験の収穫で、積み重なっていくことで、成功へ繋がっていくチャンスになるはずです。

義務教育の段階でそれを「実感」を伴って学ぶことができていれば、もっと早い段階で、自分の考えや興味関心、自分の得意なことにじっくり向き合う時間とチャンスがあっただろうと考えます。

育ってきた家庭環境

家庭環境は、選べません。だからこそ教育に差が出ないよう、フィンランドのように、ほぼ無償で大学まで行けたらどれだけ素晴らしいだろうと考えてしまいます。

自己肯定感を得るのが難しくなる原因としての家庭環境は、様々あると思います。

もし読んでくださっている方が親御さんであるなら、お子さんに対しての言葉がけは、以下を参考にしていただけたらなと願っています…!

「頑張ったね」

「そうなんだね」

「〇〇って考えてるんだね(子どもの発言を繰り返す)」

「(親御さんの意見を伝える時は)私は・・、こう思うかな」

細かい説明は省きますが、言葉がけ一つ変えるだけで、自己肯定感は大きく変わってくると思います。

上司の方にとっても、是非活用いただきたいフレーズかもしれません。

ちなみに以下にご紹介する本は、私自身が自己肯定感に悩んでいた時期に出会った本です。

興味のある方はぜひ読んでみてください。自己肯定感についての学びが多くあり、ほっこり嬉しい気持ちになります。

子育てされている方にとっては、なおさら魅力的な本かもしれません。

一方で、もし読んでくださっている方がお子さんや自己肯定感が得られず悩んでらっしゃる大人の方なら、ご自分の家庭環境について振り返ることも多いと思います。

ご自分を守れるのは自分しかいませんが、言い方を変えれば「自分は自分の大親友、味方!!」とも、言えると思います。

自分の中に、幼かったころの自分をイメージして上記の言葉を語りかけてあげたり、ノートに考えや想いを書き出したり、瞑想をしたり。この3つは、自己肯定感を得るにあたってとても有効な手段だと考えています。おすすめです。

直し方?自己肯定感の低さは何も直す必要がない(え?!)

直し方ですが、結論から申し上げますと「何も直す必要がない」です。

ゆきのこ
ゆきのこ

…え?!読む意味!!

ちょっとお待ちください。なぜ「直す必要がない」と断言できるのか、気になりませんか?

仮に「自己肯定感が高すぎるから直したい」という相談を受けたとしても、私は「何も直す必要がないよ~」と伝えます。

なぜ「直す必要がない」と断言できるのか、それは自己肯定感のもつ性質にあると思います。

そもそも自己肯定感とは?

「自己(自分)」を「肯定(認める)」する「感(感覚)」。つまり「自分を認めている感覚、感じ」のことですよね。

自分を認めているかどうかって、他人から見て分かるものなのでしょうか。さらにいえば、自分を認めている感覚の「高い」「低い」って、何を基準として話しているのでしょうか。

私は、自己肯定感は他人(たとえ家族や親しい友人で会っても)から見て分からないものだと思っています。また高い低い関係なく「自分で自分を認められているか、まだ難しいか」の2択だと思います。

シンプルでわかりやすくないですか?

しかしこれは、私が教育分野で得た、学びや経験を踏まえた上でたどり着いた私自身の考えをまとめているにすぎません。偏った考えがあるかもしれませんが、参考までに読んでいただけると幸いです。

自己肯定感に関する情報は、検索すると様々なものがありますよね。自己肯定感を育む方法や考え方などなど…。ここに限らず他の多くの情報と比較して、読者の方にとってしっくりくる考え方が見つかるといいなと願っています。

前の項目でも紹介しましたが、私自身が自己肯定感で悩んでいた時に出会った本のリンクを再度記載しておきます。

自己肯定感の本は様々なものがあると思います。ぜひご自分の感覚にしっくりくるものに出会えることを願っております。

自己肯定感を「直す」とは

「自己肯定感が低すぎて(高すぎて)直したい」の想い。実は、自己肯定感を持つことが難しい・・・・・・・・・・・・・・からこそ生じている想いだと、私は想います。

ややこしいですね。つまり「自己肯定感が低すぎる(高すぎる)」と何らかの理由で思ったとしても、「直したい」と思っている時点で、まだ自分を認めきれていない状況なのだと思います。(まだややこしい…)

もし上記のように思っていたとしても「直したいなんて考えちゃダメだったんだ…」と思う必要は全くないと、私は思います。

「そっか、私は直したいって思ってたんだねーーーそっかそっかー。」と、友達に話すように(もしくは自分の中に幼い頃の自分をイメージしてその子に向かって話すように)自分に声をかけてあげてもいいのかなぁーと思っています。

自分の感覚や気持ち、想いを発見して、また一つ「本来の自分」に近づけると言いますか、何と言いますか…。

うまくまだ言葉にできませんが、とにかく「そっかそっか。そうだったんだねー。」と自分に話しかける度に、自分に対する気づきの「収穫」があるのだと、私は考えています。

「そっかそっかー」と自分に話しかける機会が増えていくと、自己肯定感がいつのまにか身についていると思います。焦らなくてオッケー!今のままで大丈夫!と考えても大丈夫なのではないでしょうか。

自己肯定感が低い?原因と「直す必要がない」見方を踏まえた未来は

前の項目を踏まえて、

 自分の性格を直す必要はないと知る

 自己肯定感は「自分を認めている感覚」。他者から見て分からない&比較のしようがない

 「そっか、私はそう考えているんだね。」と語りかける数を増やしていく

以上のことを意識していくと、どのように変化していくのでしょうか。

  • 自分が自分で居ることに安心できる
  • 自分の心が心地いい場所になる
  • 自分で自分の「嫌だなー」と感じている部分に対して「そうだよね、そうなっちゃうんだよね、うんうん」と肯定し認められるようになる

上記の箇条書きで示したような変化を感じるようになると思います。

余談:自己肯定感が低いと感じていた話(自己肯定感を持てるようになってきた経緯)

私自身の話をしますと、私は今まで「自己肯定感」を意識することで逆に自分を否定していることがよくありました。(矛盾)

教育関係だったので知識として「自己肯定感」は知っていましたが、「自己肯定感」を意識し自分を肯定しようとすればするほど「自分は自分の事を認めてあげられていない」自分を発見してしまうのです。そんな自分を否定するという、悪循環にはまっていました。

悪循環を抜けられたきっかけは「そっか、できないところも含めて自分なんだ!自分を認めてあげるのが難しいんだよね~そうなんだよね~。」と語りかけ始めたからです。

「自分を認めるのが難しい」と気づき、認めたから、自分を認められるようになっていったのです。ほんとうにややこしい笑 すみません分かりづらくて…

分かりづらいのが申し訳ないですが、少しでも私がお伝えしたい想いが伝わって、この考えにしっくりくる方がいて、自分で居ることに幸せを感じる方が増えたらこんなにうれしいことはありません。

自己肯定感が低い?低いって何が基準?見方を変えたら肯定できてきた!のまとめ

いかがでしたでしょうか。一人でも多くの方が、そのままの自分で安心して心地よく日々をすごせますように願ってやみません。

 自己肯定感とは「自分を認めている感覚、感じ」

 自己肯定感は他人(たとえ家族や親しい友人で会っても)から見て分からないもの

 自分で自分を認めている感覚の「高い」「低い」って、何を基準としている?→比較のしようがないのでは?→高い低い関係なく「自分を認められているか、まだ難しいか」の2択で考えてみる

 自分の性格を直す必要はないと知る

 「そっか、私はそう考えているんだね。」と語りかける数を増やしていく

あくまで私個人が「自己肯定感」に対して考えていることです。何かの参考になりましたら幸いです。

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